この世に固体として確実に存在する生物が移動するのに、全くの無音など有り得るだろうか。ましてや人を斬る者として、それも格別の実力を他人により保証された人間が真夜中に紡ぎ出されたそれを識別できないことなど。従って彼が自身近くへの彼女の侵入に気付かなかったはずなどあるわけが無く、それは彼によって許された、ただ彼女にだけ与えられた特権ともいうべき無類の価値ですら有るのかもれない。ただしお互いがその権利を共有認識しているわけでは無く、つまりは彼女が自らの行為に何らかの罪悪感を持っているとしたら。それはまさしく。
「好都合だな。ある意味、では」 ある日偶然に彼女を見付けてしまった。名前を知ってしまった。面と向かって出会ってしまった。朱色の声を知ってしまった。強く、強く惹かれてしまった。黒い瞳を持った、今にも泣きそうな顔を独りで抱え込むことに失敗した彼女に。誰より自分の感情に鈍感で、他人の感情に敏感な彼女に。懐かしく甘美で危険な香りを持ったその感情は、しかしながら彼を程よく酔わせてくれるにはあまりにも無毒で、それでいて決して無害ではない狡猾性をも持ち合わせている。無論そのことを彼は熟知していてそれでもそこに足を踏み入れることに何の躊躇いも感じないのは、それほどまでに自分が彼女を欲していることに対して自覚があるからに、間違いは無い。 「、」 無音と紛う程の微かな音で開かれた外との境界線から、彼女がゆっくりとこちら側に向かってくる音がする。そこを越えたのは彼女自身であって、彼はそれを強制したわけでも強要したわけでもない。そんなことにいちいち拘ってしまうのはただ彼女が離れてしまうのを恐れているからなのか。彼は未だにその答えを見つけ出せずに、ただいつまでも不様に足掻いている。 |
溺れる月光
後はもう底深くまで沈むのみ。
20080705