この部屋の主とでもいえば良いのであろうか。紫ノ塚学園高等部生徒会長という立派な称号を背負う彼、氷浦海響は友人の奇行に呆れ果てながらも至って冷静に仕事をこなしていた。新入生歓迎関係の行事が一段落ついた今の時期が時期であるだけにさして緊急を要する仕事は無いのだが、それでもこなすべき雑用は山のようにある。それを知ってか知らずか、否確信犯であろう副会長という称号を背負った、彼の相棒である君島嵐士は消えてしまったのだ。彼の視界の相棒と共に。
「眼鏡がないんじゃパソの字も見にくいでしょ?」 「見にくいどころかほとんど何も見えない」 「嘘。じゃあ人の顔もあんまり見えない?」 「全く見えないというわけじゃないが」 「うーん、じゃあ無理かしら」 「何が?」 「画面が見えないぐらいなら、私が企画書作っておくから嵐士を探しに行ってもらおうかなって思ったんだけど、自殺行為っぽいからやめておくわ。私が探してくる」 「あぁ、頼む」 「じゃあ海響は不本意にも出来てしまった休暇の時間をゆっくり過ごしておいてくださいな。行って来ます」 今しがたまで海響と同じ空間の空気を吸っていた彼女、は彼らと同じく生徒会に在籍しており、会計の仕事に加えてサボりがちな君島に代わって生徒会長を支えている、いわばもう一人の海響の相棒である。君島が何かにつけて中学時代からの後輩である神崎のところへ遊びに行く度に彼女の仕事内容が増えるわけだがそれに文句も言わずに、後に本人に対して皮肉はよく言っているが、片っ端から片付けていってしまうあたり、実は彼女が生徒会内で一番の働き者であるかもしれない。そもそも彼女の有能ぶりに目をつけて選挙の際に推薦人として壇上に上がったのは生徒からの信頼も厚かった前生徒会長であり、本人さえ拒まなければ間違いなく役職名は副会長になっていただろう人物だ。彼女はあまり目立ちたくは無いという理由で副会長への推薦を拒んだが、なら会計か書記はどうだという前生徒会長の熱烈な勧誘に折れ、現在に至っているのである。かといって彼女が嫌々ここにいるのではないということを、海響は良く知っている。これは後に彼女本人から聞いた話だが、実は生徒会自身には前から興味はあったのだという。ただ、副会長ともなるとやはり集会の際等に生徒に向かって話す機会などが多くなるわけで、そのようないわゆる目立つ仕事は苦手だがお金の計算なら、という条件付で彼女は生徒会入りを了承した。その時の笑顔が印象的で、それに付け加えられた、海響はそういうことがさらっとできるからかっこいいんだよね、という言葉も思い出して彼は少し笑った。 休んでいろとは言われたが、実際には彼の脳は全く休んではいない。確かにパソコンの画面や読みかけの本の小さな文字を追いかけるのにこの視力では余計な神経を研ぎ澄ませなければならないだろうし、かといって机に突っ伏して寝てしまうわけにもいかず、せっかくに貰った小さな休暇をどう利用しようかと考えを張り巡らせているのである。そうこうしているうちに生徒会室の扉が開き、そこにはおそらくであろう女生徒の姿が見て取れた。 「早かったな」 「海響、眼鏡はあと2時間は我慢したほうがよさそうよ」 「2時間?」 「今神崎君たちと一緒にツチノコ探しに裏山に行ってるんだって。探しに行ったら入れ違いになっちゃいそうだったから戻ってきちゃった」 「またツチノコか」 「まぁ嵐士も極悪人ではないんだしそのままどっかに捨てちゃう、なんてことは無いでしょう」 「裏山でうっかり落としてきそうではあるがな」 「それはあるかも」 それっきり腕を組んだまま考え込んでしまったは近場にあった椅子を引き寄せ、それに座った。否、座ろうとしたが座れなかった、というのが正しい。それが出来なかったのは海響が彼女の行動を制したからだ。実はが座ろうとした椅子は、先日、これまた君島が原因なのだが、些細な事故で板の部分と足の部分の接続が壊れてしまっており、もしが腰を下ろしていたら怪我をしていたかもしれないところだった。小学生が、人が座ろうとしている椅子を後方に引くといういたずらをすることが多々あるが、恥をかくだけでなくあれで大怪我を負ったという話はよく耳にする。それと似たような惨事が一歩手前で未然に防がれたといったところであろうか。海響に二の腕を掴まれる様な格好で突っ立っているは、自分が一体今どのような理由で行動を止められたのかが全く理解できていない様子である。海響は事の次第を彼女に説明し、それが終わると同時に大きなため息を漏らした。 「まるで子供ね、嵐士って」 「子供のほうがまだ可愛げがあるさ」 「ブラック海響が光臨なさったわ」 「まぁこれを片付けていなかった俺も悪かったんだが」 「気付かなかった私も悪かったのよね」 互いに謙遜しあうような問題でもなかったからであろうか、いつの間にか顔を見合わせて二人で穏やかに笑っていた。こんなことは日常茶飯事だ。トラブルだって、何も無い日常よりははるかに刺激的で面白い。そういった意味では君島嵐士は最上のトラブルメイカーであったし、彼らはどこかでそれを受け入れているような空気を共有している。 「でもさ、嵐士って眼鏡似合わないんだよね」 壊れた椅子を生徒会室の隅に運んでいた海響の背中に、不意にの言葉が投げかけられる。何故そのような言葉が今、この場で投げかけられるのかが分からずにいると、は海響に近付き面と向かって話し始めた。海響の裸眼でもはっきりとその整った顔が見えるほどの距離で。 「海響の眼鏡を嵐士がね、少しの間かけてたわけですよ。度がきついからすぐに外しちゃったけど。それがさ、何か普段の嵐士のイメージとあまりに違ってて、それが良いほうに違ってたんなら話は違うんだけど、はっきり言って似合ってなかったのよね」 そう話す彼女の頬が心なしかほんのり赤く染まっている。語調もやや早口で、海響には少しばかり興奮しているようにも聞こえた。彼女は何を言おうとしているのだろう。海響の頭の中では様々な憶測が飛び交ったが、中でも一番広域に彼の脳内を占めていた考えはこうだ。彼女は君島のことが好きなのだろうか、だから、彼の意外な一面を垣間見られたことが嬉しくて、こんなにも嬉しげに話しているんだろうか、と。それは生憎、海響にとってはあまり歓迎できない考えである。自身がに惹かれていることは自分でも承知のとおりであったし、君島が自分と同じ想いを彼女に対して抱いていることも知っているからである。 「でもさ、海響って眼鏡が似合うじゃない?」 彼女の言葉の真意が分からない。ただ、彼女の瞳は先ほどよりも幾分か真剣みを帯びていて、まるで本題は此方の方なのだと訴えているようだ。 「何が言いたいんだ?」 海響が少量の不安と疑問を抱えて発したこの言葉が、彼女に意を決させる引き金となったことを、彼は後になって知ることになる。彼女の表情の変化を敏感に感じ取った彼は、様々な感情が幾重にも折り重なったような不思議な感覚に襲われ、次に彼女が言葉を紡ぐまでの時間を異常に長くも感じた。その所為もあったのだろう。否、彼女の独特な表現のせいでもあったのかもしれない。彼が彼女の言わんとしている事を理解するまでに、またしばらくの時間がかかった。だがそれが彼にとって、硬い氷を溶かすような、ゆっくりとしていてとても優しい時間であったことに間違いは無い。 彼女は言った。 「私はね、眼鏡が素敵に似合う男の人が好きなの」 |
青い誘惑
だから、私の言いたいこと、わかるでしょう?
20080703 改題改稿